あなたのヴィジョン その丘の向こうには、きっと見たことのない世界があると信じていた。 草花は日を浴びてきらきらと硝子の欠片のように瞬き、 精一杯柔らかな土のにおいがするだろう。 そして遠くにはうっすらと、靄がかったように、 見知らぬ新しい世界があるのだ。 その地は神に抱かれた豊かな地、 人々は争うこともなく、互いを愛し、生き物を愛し、 命の息吹があちこちから舞い上がって、 生まれて来たことを歓喜する。 それはきっと、わたしの夢。 いつまで経っても越えられない丘に込めた、 未来への憧れと、 切ない夢。 「だからといって別に、その丘が“禁忌”だったわけじゃあないのよ。」 神殿から見える、遠くパレンシアの街灯りの揺らめきをぼんやり眺めながら、彼女は言い訳するように言った。 「近付いちゃいけないってわけじゃなかったし…ただ母さんはよく言ったわ。遊びに行くなら、丘の手前までにしなさいって。丘の向こうまで行ってしまったら、次元の狭間の知らない世界に引きずり込まれて、二度と帰って来れなくなるって脅すの。ちっちゃい頃は信じたわ、でもじきにそれが、子どもの帰りが遅くならないように心配して作った、ただの作り話だって気付いたわ。 …アーク、あなたはあの丘のこと、知ってる?」 「いいや、だってそれ、シオン山の麓にあったんだろ? あっちの方は、神の領域だからって、俺たち近寄れなかったよ。」 「…そうかもね。でもその丘の神秘性って言うのかしら、――と言っても、私だけのものだったけれど――それも、もう終わりね。あの丘はトウヴィルから消えたわ。一年前の地殻変動のせいで。」 過ぎ去った故郷への想いが込み上がり、目を細めたせいで、街の光は滲んだ絵の具のようにぼやけて見えた。一瞬自分が泣いているのかと思った、でも、そうではなかった。 こうしてふたりして会えるのは久しぶりだった。そんな時が来ればいつも、拍子抜けするほどつまらない話をした。世界を飛び回る彼は、閉籠らざるをえない彼女に、“帰る”度に色んな土産話を持ち込んだし、時には酷くぶっきらぼうに(それが彼の照れ隠しなのだ。)贈り物を突きつけたりもした。 だけれど彼らが一番好むのは、“故郷”の話だった。山奥の小さな村、年に一度のお祭りのこと、村で唯一の雑貨屋のおばあちゃん、子ども達から子ども達へ受け継がれる川の近くの秘密基地、わらべ歌、崖にたった一輪咲くと言われる誰も見たことのない伝説の花…たったふたり、同じ場所で生まれた者同士、話題はいつまでだって尽きなかった。 だから彼女は、今まで誰一人として告げたことのなかった、あの“丘”の話をした。 それは彼女の住んでいた屋敷の裏手から、少し行ったところにあった。とてもなだらかな丘だったけれど、幼い子どもにとっては、聳え立つ霊山と同じほどの威圧感があった。彼女は好奇心に満ち溢れながら、よくその丘に行った。丘は子どもの足で登り切るには高過ぎたので、大抵中腹で登るのを断念した。だからこそ、その丘の向こうにあるものを、彼女は憧れを持って想像した。それは、求めても求めても手に入らない、神聖性に包まれた希少な存在に思えた。 結局彼女は、あの丘を越えることが出来るほどの年齢になっても、そう出来なかった。丘の上に立ってはいけない気がした。決して、越えてその先を見てはならない気がしたから。 今になってみれば、どうして丘の向こうの世界に踏み入れて見なかったのだろうと悔やまれる。もう二度と、あの場所にあったであろう光景は目にすることが出来ないのだ。 そんな女々しい感傷に気付かれるのが癪だったので、彼女は少し、ほんの少しだけ矛先を変えた。 「アーク、あなた兄弟はいた?」 「いや、一人っ子。」 「そうでしょうねえ!」 「なんだよ、笑うなよ。」 「だって、ねえ。」 不機嫌そうに眉を寄せる彼の横で、彼女は肩を震わせて笑った。 「私には、姉ばかり何人もいたわ。末っ子だったのよ。」 「へえ、そうだろうな。」 「何よ、笑わないで。」 「だって、なあ。」 怒ったふりをしながら相手を小突いて、彼女は街灯りに背を向けた。高地によく現われる、ひんやりとした風が通り抜けていって髪を揺らした。 その時途端に、今の風が運んできたのだろうか、侘しさ、切なさが膨れ上がった。それらはとても心に堪えて、彼女はしんみりと口を開いた。 「…姉さん達は皆、あの丘を越えて、嫁いで行ったわ。 私もいずれは、そうなるはずだった。」 彼がちらりとこちらを盗み見たのがわかった。だけれど彼女は振り返らなかった。 「…もしかしたら、あの丘の向こうには、自分の未来とか、色んな可能性がいっぱいに広がっていたのかもしれないわ。そうね、そうに違いない。 あの丘に立てば、私は自分の未来を選ぶことが出来た。きっとそんな丘だったのよ。」 「…聖母になったこと、後悔してる?」 彼の問いに、彼女は表情を引き締めて振り返った。 「たとえ選べたとしてもね、アーク。私は今以上の未来なんてなかったと思うわ。 そりゃあ、ひとりぼっちでこんな神殿にいるのは寂しいわよ。でも、あなたや、皆に会えない未来があるなんて考えるだけでも、恐ろしくて寒気がするわ。怖いわ。 ただ、そんな未来をもし生きることになったら、あなたのことも、皆のことも知らなくって、やっぱりそれが一番の幸せだって思って、あの丘を越えて誰か知らない人に嫁いだんだわ。馬鹿ね、私。」 「……」 彼女は目を伏せた。視界には未来はなく、薄汚れた石畳に爪先が見えただけだった。 いつもだったら、もっと子どもっぽく、他愛もないお喋りが始まるはずだったのに、どうして今日に限ってこんな話をしてしまったのだろう。あの丘のことなんて、このめまぐるしくそして怠惰な毎日を繰り返すうちに、忘れてしまったはずなのに。 あの街灯りを見ていたら、こんなにも静かな夜を感じていたら、何故かあの頃のくすぐったい夢や、憧れ――一番上の姉が嫁ぐ時、彼女は煌びやかな衣装にひどく憧れた。今だったらそうは思わない、今だったら姉のどこか寂しげな微笑みの意味もわかる…!――やらが、ふいに思い出されたのだ。 二度と帰っては来ない過去。もう一度あの丘に登りたいと願っても、人は前へ、前へ、ひたすら、木偶のように歩いて行くしかないのだ。 彼女は明るくて、快活で、そして優しかった。こんなしみったれた雰囲気、ちっとも楽しくなかった。らしくないわね、心の中で苦笑いして、寄りかかっていた窓辺から体を起こした。 「ごめんね、暗い話して。この話は、もうおしまい!やめましょ。 ね、最近の流行はなんなの?教えて。」 明るく装って、彼女は彼の方に振り向いた。そして必然的に“それ”に気付き、はっとして、微かに後退りした。 彼は振り向く前から彼女を見つめていた。眼差しは吸い込まれてしまいそうなほど真摯で、瞳の奥に、生まれたばかりの新星のようなきらめきがあるような気がした。 思わず彼女は息を飲み込んだ。射殺す気?軽口を叩こうとしたけれど、出来なかった。金縛りにあったように動けなかった。彼女は思った、私より…私よりずっと、あんな丘よりもずっと、この瞳の方が、眼差しの方がパワーを持っていて、より広大で、より…神聖だわ。 言葉を持たない彼女に、彼は深い愛情を持った父のような、偉大な力を湛える方のような、そして何より古の力を引き継ぐ愛ある少年として、静かに問うた。 「君は、あの丘の向こうには未来があるんだと言ったろ?」 「…ええ。」 「それなら、もう君は、丘を越えたんだ。君はあの時見ることが出来なかった未来を、“今”過ごしてるんだから。」 同じように彼も体を起こして、佇む彼女に向き合った。彼と彼女は、たいして身長だって違わなかった。だけれどこの時、彼女には彼が、揺ぎ無く、限りのないとても広大なものに思えた。本当はただの…ちょっぴり気が強くて、我侭なところもあるけれど、優しい…少年であるだけなのに。 彼は得意げに(ほら、こんなところにそんなやんちゃな部分も見え隠れしてる!)、言った。 「俺はね、その丘を見たわけじゃないけど、その向こう側に何があったかわかるよ。 知りたいだろ?」 「…嘘つきね。」 「ほんとだよ。」 「…それじゃ、教えて。」 彼は両手を広げて、にっこり笑った。 「俺がいたのさ。」 彼女は一瞬きょとんと硬直して、そして…耐え切れずに吹き出した。 「馬鹿ね!」 「馬鹿なもんか!君は、俺を選んだんだ。俺や、仲間達と行く道を選んだんだ。だったら、丘の向こうに、俺達がいないわけなんてあるか!」 彼は大真面目だった。いいや、大真面目に見えて、本当は豊かな優しさと、想像力と、それを相手の為に使う術を良く知っている。なんて器用な人、そして、なんて偉大な人! 馬鹿だなんて、さも心外だ、というように憤慨してみせる年下の少年に、彼女はもう胸が一杯になって、思わず抱きついた、 「馬鹿ね、アーク、本当に、馬鹿ね!」 そう、何度も何度も繰り返しながら。 そんな当たり前のこと、どうして気付かなかったのだろう!あの丘の向こうに未来があったなら、皆が待っていないはずはない。道はたくさん分岐していて、ともすれば迷いそうになるかもしれないけれど、きっと彼らが待つ道に向けて、“この先最良の未来”と道標が指し示していたに違いない! (結局丘の向こうの世界は、今にも崩れてゆきそうな世界だった。人々は憎しみあうことだってあったし、愛することさえ翳んでしまっていたし、生き物の息吹はどんどん消えてゆく。) (だけれどまだあなたがいるわ。私がいるわ。) (今、私達は新しい丘の天辺に立って、また向こうの世界を見つめている。そこにはやっぱり“最良の未来”の道しるべがあって、その先には、今度こそあの日夢見た世界があるわ。) 彼女は知らず知らずに泣いていたので、恥ずかしそうに、慌てて涙を拭いた。 そんな彼女に、彼は言った。勿論、限りない愛情を込めて。 「泣いた顔、すっごい不細工!」 だから彼女ももう一度、限りない愛情を込めて言った。 「もう、馬鹿ね!」 おわり |
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この度は、コンテストにて1位をいただきまして、 信じられない思いとともに、とても嬉しく思っております。 文章を作るのは、半分が書き手の仕事、 もう半分が読んで下さる方の仕事です。 私の力だけなく、読んで下さった皆さまのお力によって、 この喜びをいただくことが出来ました。 本当にありがとうございました。 ☆ アークとククルは、 その幼さにして非常に重い運命を背負ってしまったけれど、 苦しみよりも仲間と出会えたことを幸せとし、そして、 少年少女であることを捨てずにいる強さがあると思います。 いつの間にか永遠の少年である彼らの年を越えてしまいましたが、 彼らのきらめきが、こころに深く刻まれたままでありますように! |